前回の記事の続きとなります。
とは言え、前回の記事が8/27更新となっていたので、既に20日以上経過していることになります。
正直忙しかったと言う言い訳が成り立たない位の時間が経過していることに自分でも驚いています。
日々が充実していて「あっ」と言う間に過ぎていたのか?
それとも無駄な事に時間を使い過ぎて、記事の更新が出来ていないだけの怠け者だったのか?
は私の裁量次第、言い分次第、言い訳次第なので前者であると言っておきます。
前置きが長すぎても前回記事の二の舞になるので、タイトル通りの記事だけ書くことにします。
傍観者
傍観者という言葉を聞いて、皆さんはどんなことを想像するでしょうか?
その字のごとく、傍らで観ているだけの人。
ですよね。
そして、「傍ら」で観ていると言う事は、その対象に何かしらの「事象」があり、それに関心はあるが知らないふりや、関わらないようにしている
そんなイメージでしょうか。
私がこの記事で書く「傍観者」について、一番イメージして欲しいのは
いじめを語る上で分類される「傍観者」
それを理解した上で次の話へと進んでいただきたいのです。
傍観者はいじめ側か?
わかりやすい「いじめ」のイメージは学校ではないでしょうか?
そこで皆さんに思い出して欲しい、考えて欲しい部分は、いじめが起きていた時に、その場に出くわした人の分類です。
①いじめている人
②いじめられている人
③見ていて何もしない人
複雑になれば
④いじめを止めている人
⑤直接手を下していないがいじめを指示した人
等も登場人物でいるかもしれない。
しかし、今回のスポットはもちろん
【見ていて何もしない人】
である事は、すぐにわかって頂けると思います。
そして、いじめを語る時に、見ていて何もしない人もいじめと同罪だと言う形に落ち着く事のもある
が、場合によっては何も出来なくても無理はないと言う話に落ち着くこともある。
また、見ていて何もしない人もいじめと同罪だ!と言う判断に至ったとしても、
実際に起きたいじめとは関係なく、
見ていて止めなかった事は咎められたとしても、いじめとしてその後咎められる事は殆どないはずです。
いじめる側でもいじめられる側の人間でもない、その他大勢と分類されるだけです
・・・心の中で何を考えているのかわからないのに・・・
傍観者の心はSNS内と同じ
間違えて欲しくないのは、傍観者が悪いと言う話ではありません。
大抵の人が傍観者ですし、傍観するしかないと言う選択も仕方のないことだからです。
でも
傍観者の中にはこんな人がいるのではないでしょうか?
いじめられる奴が悪いんだから、もっといじめろよ!
先生に言いたいけど報復が怖いよ
いじめられているの見るの楽しいわ!ざまーみろ
自分が標的になりたくないから仕方ないよ
もっといじめろよ!もっとやれよ
いじめなんてダメだよ。やっちゃだめだよ。なんでそんなことするの。いじめられる方も、自分が強くなってやり返すなり、学校に来ないとか、何か考えて対応しろよ。いじめられないような行動を考えたり、やれることあるでしょ?なんでわからないの?
10人いたら10通り、100人いたら100通りの考えがある。
しかし、その他大勢の括りの中で、自分は間違っていない、悪くないと言う思考になっていく。
傍観者と言う括りの中では「皆同じ」だと。
でも、心の中は、
「いじめをする人と同じ思考の人」も存在している。
いじめをする事で、自分の評価は下げたくない。でもいじめを見ていたい。いじめられているやつをあざ笑う事でストレスを発散したい。
表面上は害のないふりをしているが、心の中は人への攻撃心で溢れかえっている人もいるはずです。
また、
自分を客観的に見る事はなく、人に対して自分を過大評価し、上から目線で人を見ている。と言う人もいます。
現実的にいじめている人に、やめるよう促す行動をすることはなく、いじめられている人を庇うと言う事もしない。
正論を心の中で繰り返すばかりで何も出来ないが、正論を持っている自分は正しい人間だと思い込んでいる人もいます。
そういう人の心の中は、失敗した人を批判する心で溢れています。
上手くやれない人を見下すと言う気持ちを持っています。
表面的には、攻撃性のない人に見え、正しいことを言っているように見えても、本質は・・・
SNSも現実と同じ
匿名と言う事以外は、基本は人と人とをつなぐと言う点で、現実と同じ人間関係を築ける場所
と言う事を忘れている人がいる。
SNSと上手く付き合っていける人は、現実社会でも概ね良好な人間関係が築ける心の持ち主です。
たとえ匿名でも、ネット上の名前だけの付き合いだとしても、人を攻撃することしかしない人間に、SNS上の人間関係は築けないはずです。
昔は「傍観者だった人」も、その後大人になるにつれて、
自分で行動し、自分で考えることを繰り返し、自分の人生・行動に責任を持つようになる。そして、既に傍観者としては生きてはいない。
そこに何かの事象が起きていても、目の前の事ではない、自分が関わるべきではない事に対しては傍観という時間を使わないだろう。
逆に、今でも「傍観者」の人は、永遠にその立場の中で生き続けるだろう。
現実に、自分に関係することではないのに、「事象」を見つけて、自分もその中の「その他大勢」になる事で仲間意識を持つことに安心感を持つ。
そして、現実社会では口に出せなかった「心の内」を、匿名と言う名の仮面を被って、自由に声に出すだろう。
それが、いじめをしていた人と同じ思考回路だったとしても、その他大勢の心の声だと勘違いして。
最後に
この記事をここまで読んで頂いた上で、よく意味が分からなかったと言う人は、私と違う考え方をしているだけであり、私が正しいと言うつもりがないことだけ伝えておきます。
今、私の記事を読んで「イラっ」とした人、「ここが違う!間違っている!」と私に言いたい人、思った人・・・
あなたと私は赤の他人です
考え方が違ったとしても、私の考え方が間違っていたとしても、あなたの人生には何ら問題はありません。
怒りと言うベクトルを人に向けずに、もっと有効活用してください。